セージニッククオーツ・耐えるとき・ 2018年6月29日
セージニッククオーツが出ています。
セージニッククオーツに求めるのは「忍耐・するべきことに集中する」。
この作用の元になる働きとして心を前向きに保つことが要求されます。セージニッククオーツでは特にその部分を使い、忍耐強く、そして物事に集中できるよう考えました。
また、行き詰まり感があるときに「本当はどうしたいのか」を再確認するときにも有効です。
さて、カードは「吊られた男」。
良し悪しの判断が難しいカードではありますが、示唆に富んでいるように思えます。
カードのデザインとしては男が逆さまに吊られていて、まったく身動きができない状態ですよね。
しかしながらその表情は決して苦痛に満ちたものでなく、何か悟ってさえいる様子。
外見的には絶望的ですが、その状況からでも見出せる光があるのではないか、と語っている様子です。
絶望的な状況、ゲーム
人間を精神と肉体に分けるなら、肉体だけを見ているとこれはほとんど絶望的な状況でしょう。
「生老病死」に悩むのは、それは肉体についてだけであって、精神への言及はありません。あれはあくまでも肉体だけを見ています。
もちろん、多くの場合、人は自分が肉体そのものだと思っていますから、それがなくなってしまう「死」は恐ろしいことなのでしょう。
ところが人は100%の確率でいつかは死亡しますので、ジタバタしてもどうしようもありません。絶望的です。
そこで、実は「生老病死」に苦しむのはある種の「罠」(わな)とする考えもあります。
これは人間が自分を物体(肉体)だと考える度合い応じてその罠に深くはまり込むようになっているようです。
一方、精神というのは実は肉体と別にあるのだと思えるようになると、まったく異なった感覚で自分の肉体や他の物体を眺められるようになります。
ある精神が、ある一定期間を、ある肉体を使うことで行う何かのゲーム。
そのゲームの種類はその人に任せられている。
これが人生の定義かもしれません。
そうとすると、そこにはあまり絶望も希望も定めなく、どうやってゲームを遂行するのか、ということだけがあるように思えます。
今週最後のコラムになりました。
肉体、精神、人生って何?ということの答えがないお話でした。
それでは良い週末を。また次の日曜夜に更新いたします。
明日が良い日でありますように。