アクアマリン・回復のとき・2019年4月26日
アクアマリンが出ています。
アクアマリンに求めるのは「回復・復活」。
どちらかと言えば、愛情系で使われることが多いアクアマリンですが、実は「回復・復活」が元にあります。
「仲直りの石」というこのはまさに回復・復活です。
そして更に、その根底には癒し系的浄化力によって成り立っていることもありです。
浄化、すなわち「水に流そう」という、そんな感じがありますね。
カード:ソードの4/リバース
これはリバースでよしとしましょう。
厳しいドタバタが過ぎ去った静寂ですね。
ここで我に返って静かにしている感じ。
これは昨日の延長の「内観」に通じるものあり。
ここでちょっと休憩し、体勢を整えるタイミングに来ていそうですよ。
復活のための準備、そして再び歩み始めることになるでしょう。
かつてダメだったことも改めて取り組むことができそうです。
役に立たない懲罰ということ
懲罰(ちょうばつ)とは、 悪い行為に対して,いましめのために罰を与えること。
これは大体、罪とペアにして語られることが多いです。
単純に言って罪を犯せば罰(バチ)が当たるということです。
それは人間の法律による罰かもしれませんし、ことによっては神様から与えられる罰かもです。
しかしながら、単にいましめたところで、その人の罪がどうなるわけでもなく、(自己分析が終わっておらず、なぜ罪を犯したのかもわからぬまま)、被害者や環境への悪影響の救済もありません。
そういう意味では特に人の法律による罰はほとんど役に立ちません。
必要なのは分析と償いによってその人自身が罪を知って罪から回復することです。
ですから、もしも自分で自分に懲罰を与えていることがあるなら、それは即刻よしましょう。
本当に自分に罪があると思うのなら、分析と償いの行動を強くおすすめいたします。することは決して懲罰ではありません。
それから、法律によって厳しい懲罰を課せば犯罪抑止になるという考えもありますが、これは統計的に全く正しくないそうです。
(むしろ、モラルの低下によって厳罰化が進んでしまうという悪循環はあり。モラルの低下は罪の分析が進んでいない結果)
法則としての罰その1
ところで、人の法律としての罰と、自分の意思によって自分に与えた罰以外に、法則として働く罰が「二つ」あります。
そのひとつが・・・
生存の多重円の構造による自然に起こる罰です。
この円の中心にいる自分だけの生存性だけを最優先にし、他の最大多数の輪の生存をくじくことがそもそもの罪なのはお分かりだと思います。
で、ここで自分を包含する他のレベルの輪の生存性をないがしろにすると何が起こるのか・・・
結局自分が潰されてしまいます。
これが罪によって起こる自動的な罰の法則です。
国というグループでもって個人の生存性をないがしろにすると何が起こるのか・・・
結局は個々人の生存性が下がり、国が維持できません。
これって戦争に突入し、結局は滅びの道を歩みます。これ、罪による罰の法則です。
面白いことに、この生存の多重円による法則は、その時々の文明・文化に左右されません。
これによって滅びる文明は滅んでいますよ。いくつもです。
法則としての罰その2
前に書きましたが、過去の罪が現在に影響する・・・
これ自体がもう罰ですね。
過去の罪に縛られることは現在においてその人の生存性が下がることになります。
過去に間違ったのと同じ混乱が起こると、また間違ったアクションをしてしまます。
自己分析がないがために、その罪を正当化し、率先してその間違ったアクションをしてしまうこともあり・・・
それでも誰にも罪はある
誰にも罪あります。
人は全知全能ではありませんから。当然ですよね。
長い一生とか、自分では意識できないようなこともあり。
人によって数限りない転生の過去の歴史の中で・・・
しかし私は罪深い!と言って嘆く必要なありません。
どうしても知識不足で最善策が取れないこともあり、悪気のない過失による罪だってあります。
また、単に勘違いとして「あれは罪だ!」と思い込んでいることもあり。
生存の多重円として、全体がうまく生き延びる方法について、知識を高め、倫理観をアップさせる以外にはありません。
そこから立ち直るには、この罪をどうやって処理するかを自分で考え、行動するかです。
それから、最後になりますが・・・
自分が行動することで罪を犯してしまわないかとビクビクする必要はありません。
これ自体が自分の生存生を下げる罪かもですよ。
もし間違ったことに気づいたら、誰もが納得できる償いをして、そうして先に進みましょう!
こんなとき、アクアマリンの「水に流そう」が良いかもですよ。これ、「回復のとき」です。
罪と罰の話。これで一旦終了です。
明日が良い日でありますように。