ラリマー・大成功の兆し・2019年2月22日
ラリマーが出ています。
ラリマーに求めるのは「心を豊かにする」。
ラリマーは根本的に癒し系ストーンですね。
なにせ心が「イーッ!」となっていたら豊かになんかできませんから。
まあ、全体としては意味辞典の記載通りですね。
カード:ワンドの8
おお!これは良いカード。
チャンス到来、大成功の兆し。「まずいな」と思っていたことさえそうでもなかったことに。
アドバイスがあるとすれば「心配するな!」です。
それでラリマーを使って心豊かにしようということ。
そして、この成功の陰には多くの支援者がいたことに思い巡らし、感謝を忘れないことが大切。
罪の意識を少し掘り下げ
前回に続き「罪系」のことをさらに記しておきます。
「正体」を知ることで、対処の端緒に。気分はマシなはず。
非常にシンプルに書けば「まずいことやっちゃったなぁ〜」という気持ちが罪の意識ですよね。
人が生きる中には、その時々の知識不足や単なる判断ミス、うっかりな過失ということもありますから、数々の罪の意識が起こりえます。
で、これをなんとか少しでもマシな方向へ正そうとすれば良いのです。
しかし、罪となった行為を正当化するための「動機」を語り出すことがあります。
そして、この正当化のために「あれは正しかったのだ!」としたいがためにもう一度同じ罪を犯す・・・という悪循環に陥るわけです。
これ、何度も書いている「卑怯者」、自分の非を認められない、罪に向き合えない「弱虫」がする行動です。(これ、自分自身に対する罪も同じことですよ)
「助けられなかった」という思い
さて、上に述べたのはシンプルな罪の意識なのですが、他に複雑なものもあります。
例えば、「助けられなかったこと」に対する罪の意識です。
助けようと行動したけど失敗したとか、助けようと思ったけれど自分も身動きが取れなかった、といった状況です。
これ、正直で真面目な人ほど自責の念にかられることがあります。
実は、この自責の念だけがあまりに過度に働くと、これもある種の「悪循環」を生みます。
そしてことによっては「自分は他を助けられない人間だ」と決めつけてしまいます。そうしてそれ以来、誰かを助けることをしなくなります。
しかし、このメカニズムをよく見ると、先に書きました「罪の動機を語って自己正当化する」ことと変わりないことがわかります。
誰それとか環境が悪いんだ!とする代わりに、「自分はダメな人間だから」と、方向が変わっただけですよね。
実は自己卑下も卑怯者状態であり、同時に自分に対する罪にもなります。
さてさて、このような状況から抜け出すことはできるのでしょうか?
できます!
これはその罪だと思っている出来事の、その瞬間について細かく振り返ってみることです。
- 判断のミスをしたのはなぜか?
- 何かの知識が足りなかったのか?
- いやいや、誰がどう見ても為すすべがなかったのではないか?
これ、かなり客観的にする必要ありで、多少は大変かもです。
でもまあ、悪循環を断ち切って新しく歩み出そうとするのですから、ちょっとは頑張りましょう。
これらのことが個々の人にとってそう簡単なこととは思いませんが、メカニズム、そして考え方のヒントになればと思います。
自己責任論をかざすとき
日本では「自己責任」という考え方がよく叫ばれますよね。
これが使われる場面というのは、単に「助けられない」または「助ける義務を放棄したい」という罪の瞬間かもですよ。よく注意して見てください。
これが起こるのは、個々の人の心に「過去に助けることを失敗したという、心の傷」がある可能性かなり大。
それで「助けなくても良いための動機」が語られます。それが自己責任論です。
これは個々の人が作ってきた日本という国全体に言えます。第二次大戦時の自国、他国の被害者や、それから福島の原発事故の被害者を十分には助けることができていない、という罪の意識が確かにあるはず。
その罪の意識から逃れようとすると・・・もっとも簡単なのが「自己責任」です。
喪失の記憶
ところで、誰かを助けそこなったとき、往々にしてその相手を「喪失する」という場面が少なくありません。
助けそこなうと同時にその人を失うというパターンです。
このとき、この「誰かを助けそこなう」ことと「喪失する」ということがごっちゃになって記憶されることがあります。
そうすると、あとでまったく別な要件で「何かを失うという喪失の場面」で、「誰かを助けそこなった」という嫌な気分が反応的に湧き出すことになります。
これは助けることの失敗と喪失は別個に見直すことが必要になることを意味しています。
ヒントにしてください。
明日が良い日でありますように。