プレナイト・選択と責任・2019年1月9日
プレナイトが出ています。
プレナイトに求めるのは「正しい選択」。
プレナイトには自分にとって必要な情報だけをフィルターにかけるように選りすぐってくれる作用がありますね。
この働きの根底にあるのは、実のところちょっとばかり「頭を冷やす」ということにありげ。
緊張があったり、うわついてのぼせ気味になっている心を鎮めてまともな判断をしようということになります。
カード:恋人たち
良いカードです。
ただしそれは「良い選択」ができていれば・・・
という条件をつけたほうが良いかもです。
新しいことが生まれる予感があるカードです。
例えば出会いがあるかもしれません。
それは恋愛系であったり、ビジネスの上でのことかもです。
そして将来の期待に胸おどるようなことがあるかもです。
ここで重要なのはなんと言っても「選択」。
そして「選択しなければならない時期にある」ということも言えそうなのです。
選択することと責任
選択するには責任を伴います。
で、優柔不断で決断することができずに選択が不能という人は、実のところ責任を負えないのではないか、という不安を抱えているわけです。
選択不能、優柔不断の正体はこれだけのことです。
で、そのような人は大切なことを他人に決めさせようとします。
そうすればその選択において自分が責任を負うことはありません。
これ、もしかしたら日本に昔から根付いている「空気を読む」とかと言う習わし、組織内での「立ち居振る舞い」の仕方と関係ありはしないかと思えてなりません。
これらの習わし、行動規範はもしかすると「個々が責任を問われずに済むかも」というセコイ損得勘定が働いてやしないかと。
で、一方「自己判断」で行動して失敗した人を見ては「自己責任だ」と声高に叫んでいるのではないかと。
でもね、元々が人の集まりというのは失敗した人でも助けなければならない「責任」があると思うのです。そうでなかったら「人々」ってなんでしょう?
それはグループとしての責任です。元々が助けあわねばこの地球上で生きていけないのが人間です。
そしてそのグループとしての責任回避をしたいがために、個々の人の失敗を「自己責任だ」と言って突き放すことをしているように見えます。
ど〜も、日本の風土には責任を負うことを回避するための圧力がずっとあるように思えてなりません。言うなれば責任回避文化です。
自分(とそのグループ)の責任を回避したいがために、個々の人には「自己責任」を押し付けていやしないでしょうか?
そんなところに、個々の真の自由や自立はないように思えます。
その選択が正しいか?プレナイトに聞いてみよう。
明日が良い日でありますように。