クンツァイト・実りのとき・2019年8月1日
クンツァイトが出ています。
クンツァイトに求めるのは「母性・優しさ」。
母性や優しさと言えば、対外的な感情なのですが、クンツァイトを使うには、まず持ち主自身が自分を愛していることが前提。
ですので、このストーンを使うのはちょっと難しいこともあり。
そこでクンツァイトを使うには、同時に他の補助ストーンを使うことの方が多いです。
カード:女帝
良いカードです。
十分な実りを得られる吉兆です。
これが得られるのは、これまでに愛情を傾け、ひたすらに育んできたことが成果となって現れるということです。
カードそれ自体は物質的な繁栄や成功のシンボルなのですが、それを得られるにはひたむきな愛情があってこそのことなのです。
今現状として苦労の最中にあったとしても、心配には及びません。
実りを得られることはカードが約束しています。
気楽な者が勝利する(その4)
この前の参議院選挙で身障者の方2名が当選され、国会に登院することになりました。
これは非常に画期的なことで、国民全体として歓迎したいと思います。
しかし、そこで問題になったのが物理的なバリアのフリー化。これはなんとかなるでしょう。
そしてもうひとつの問題はヘルパーさんの費用の問題。
これは物議を醸しています。
法律の壁、それをどうやって乗り越えるのか?
一部には「勝手にしてくれ」という冷たい人もいるわけです。
かつてシドニーで見た光景
筆者(これを書いているのは中尾友次郎)は、今から30年くらい前にシドニーで1年暮らしていたことがありました。
かなり昔ということもあり、街や道、鉄道などの公共機関は決してバリアフリーではありませんでした。
しかし!街中には車椅子で移動する人が結構多いのです。住人として感覚的な感じではありますが、日本より本当に多い。
彼らがどうやってバリアフリーでもない街で車椅子生活していたのか??
なんのことはない、答えは簡単なんです。
「街の人々が助けていた」
これだけです。
例えば、バスにはリフトがなく機械的な仕掛けで車椅子が乗り込むことはできません。もう普通のバスなんです。
それでどうやって車椅子がバスに乗り込むかと言えば、バスの運転手が他の乗客に声をかけ、車椅子の乗り込みの手助けをしてもらいます。
外でバスを待っている人だってすぐに手伝いますよ。
車椅子の人が地下鉄に乗るとき、エレベーターなんかありません。普通に階段です。
そんなとき、車椅子の人が単に周囲の人に助けを求めます。
「私を下ろしてよ!」
単にこれだけ。
もうあっという間に人が集まって車椅子ごと階段下まで下ろしてくれます。
これ、日本では見たことない光景です。
介助を求めることは「当然」。そして介助をする方も「当然」という感じなんです。
で、双方ともにすごい「気楽」「フランク」「当たり前」という感じ。
介助を求める方が負い目を感じるでもなく、介助する方は「当然だろ」という感じ。
そうして作業が終わったら、「ありがとー!」「なーにお安い御用だよ!」「それじゃあ良い一日を!」
こんな感じで別れます。気楽です。「気楽な者が勝利する」です。
これ、物理的なバリアフリーはあった方が良いにせよ、先に人々の心に「バリアーがない」という感じです。
日本では真逆。人の心にバリアーがあるのではないかと思えてなりません。
例えば、日本で車椅子の人を車椅子ごと通行人が何人かで階段を上げ下ろしするって、もしも怪我をさせたら責任を負えない、という感覚がありげ。
さて、シドニーの人為的バリアフリー化、これは車椅子に限ったことではありません。
列車やバスでお年寄り、赤ちゃんを抱いていた人がいたら、もう本当にすかさず声をかけて最優先で座ってもらっています。
そんな国民性ですから、そもそも優先座席なんて設定は不要。
お年寄り、赤ちゃん、体の不自由な人は絶対に必ず最優先で座れます。
もちろん、日本で言われるようなベビーカー問題はありません。車椅子と全く同様の扱いで、バリアフリーでない街中で大きく困ることはないのです。
ベビーカーを押したお母さんが単に周囲の人に声をかければ、また階段にさしかかろうとしただけで、それに気づいた人がすぐに手を差し伸べます。
人が足りなければ他の人に声をかけてでも介助するのです。
日本のバリアは、物理的なこと以前に人の心にある。そう思います。
さて、参議院議員になられた身障者のお二人。
国会内でのバリアフリーは当然として、介助の費用が別にかかるというなら、さっさと税金を投入せよ!そう思ってやみません。
明日が良い日になりますように。